院長紹介
みなさん、こんにちは。
みなさんは歯科治療にどういうイメージをお持ちでしょうか?
歯が痛くなったら行くところ、歯のお掃除に行くところ、という感じでしょうか。
もちろん歯科医院は痛みを取る治療が最優先であり、またお口の中を清潔にしていくことが重要な仕事です。
それは病気にならない、痛くならないお口、さらには、そのような身体を作っていくということではないでしょうか?
むし歯になったから削って詰める。歯周病になったから治療する。歯がなくなったから入れ歯を入れる。歯並びが悪いから矯正する。
もちろんこれはとても大事なことです。身体の悪い所を治療する。しなければもっと悪くなってしまいます。
しかし残念ながら、身体が失ってしまった機能、状態がそれ以前の状態に戻る事は二度とありません。治療しても、病気になる前の状態になることは絶対に無いのです。
このことを前提に、私たち津島みらい歯科矯正歯科は、『病気にならない為に何をしなければならないか』、『患者さんにとって今何が必要か」を常に考え、提案することを使命と考え、実践することがとても重要だと思っています。
その為にしなければいけないことはたくさんあるでしょう。
まず第一に私たちは皆さんと一緒に考えたいと思っています
その為にはお話をしたい。そして患者さんが必要と思っていること、私たちが必要と思っていることを一緒に考えたいと思っています。
2020年11月、私は50才を過ぎて心機一転、新たにこの津島に歯科医院を開業いたしました。なぜ今、ここで?そう思われる方ももしかしたらおられるかもしれません。
私の生い立ちから、この津島みらい歯科矯正歯科に至るまでを少しまとめてみました。もし、お時間があれば、お読みください。ちょっと長いですが・・・。
両親は、東北生まれ。父は福島県喜多方市の農家の三男、母は会津若松の商家の三女です。二人は結婚後、川崎市で生活する事になります。
私は、東京オリンピック後の不景気がまだ終わらない昭和41年川崎市で生まれました。
その後、酒造メーカーの工場勤務だった父の転勤で、兵庫県尼崎市、神奈川県川崎市宮崎台、東京都品川区中延に引っ越し、東京都品川区立源氏前小学校に入学しました。
源氏前という名前の由来は、平安時代に後三年の役で源義家が東北へ出兵した時の陣所があった事に由来するもので、子供ながらに歴史を感じるものでした。父が歴史好きでその影響もあったかと思いますが、そんな小学校名が好きでした。
経済的にはあまり豊かではありませんでしたので、母は縫製工場にパートに出ていました、いわゆる鍵っ子でしたが、当時は夜暗くなるまで外で友達と遊ぶのが当たり前の世の中でしたので、寂しいと思った事は全くありませんでした。
あまり運動好きではありませんでしたが、母の勧めもありスイミングに行っていました。スイミングといっても公立プールで趣味でやってる指導者の方だったので、お金はさほどかからなかったようです。
思い返してみると、ほとんど毎日温水プールに行ったり、休日には代々木のオリンピックプールに泳ぎに行ったりとほとんど選手コースと言えるものでした。
夏休みに代々木のオリンピック選手村で参加した合宿は、全国各地からの参加者があり、とても心に残るものとなりました。
小学校5年生の夏休みに父の転勤により、杜の都仙台に引っ越し、転校する事になりましたが、引っ越して、とても違和感を感じた事がありました。
東京に住んでいた時は同級生の貧富の差がとても大きく、部屋が十以上もある大豪邸の子もいれば、1DKで5人家族の子もいました。でも皆んなそんな事は全く気にせず普通に遊んでいました。ところが仙台では、郊外の住宅地に引っ越したためか、それほど貧富の差が無い為か、他の子と比べたり対抗したりという意識が強く、とてもびっくりしたものです。
中学校は仙台市立山田中学校に入学しました。勿論公立中学なので小学校からほとんどメンバーは変わりません。でもやはり多感な時期の始まりでもありました。
僕は小学校も中学校も行くのが大好きで、1番の目的は給食でした。特に小学生の時からいつも食べ終わるのが1番でした。
給食が大好きでしたので、感染症などでの学級閉鎖がとても悲しくとても切ないものでした。
そんなこんなで色々ありましたが三年生になり、進学先を決める時期がやってきました。
僕には小さい頃からとても不得手なものがありました。楽器の演奏です。
とても嫌いでした。嫌いだけならいいのですが、音楽の成績がずっと2でした。なぜか美術も2でした。
全くそれまで気にしていなかったのですが、夏休みの三者面談で絶望の淵に落ちました。
高校入学には学校の成績が重要なんだと、その時初めて知ったのです。
模試などの成績はほどほど良かったので、余裕で学区のトップ校に行けると思い込んでいました。先生と話しているうちに、落ちるかも知れんと言われてしまいました。
我が家は豊かではありませんでしたので、私立校の受験は許されない状態で、公立高校一校のみでした。
いろいろ考えて、仙台一高の受験はやめて仙台向山高校を受験する事になりました。親からは、高校で頑張ればおんなじだよと言われましたが、これがそうでもないという事が入学後わかっていく事になります。
やはり場には雰囲気というものがあり、なかなか流されずにいるというのは若い男の子には難しいことでもあり、仙台の進学校は制服がなく私服なので何かと誘惑が多いものでした。
高校時代はほとんど勉強することもなく、無事代々木ゼミナール仙台校に入学する事になりました。
浪人というのもある意味楽しくもありますが、やはり厳しいものでもあります。ここで初めて勉強の厳しさ楽しさを知る事になります。
そして1年後無事自宅から通学出来る国立大学経済学部に入学します。ここから順調に行くと思いきや、残念ながらそうでも無くなってしまいます。
当時はバブル期で、同級生達は一流金融機関でたんまりボーナスをもらう事になりますが、僕は三年生で中退する事になりました。
医療の道へ向かいたくなったのです。
再受験を決意し、再び代々木ゼミナール仙台校への入学を許可されます。模試などでも成績はほどほどで国立の医学部に行けると思っていました。
ところが共通一次試験で人生最大の敗北を味わいます。
その年、共通一次向けの模試、河合塾、駿台、代ゼミの数学は全て満点の200点でした。もう全く満点以外は想定しておらず、国立の医学部には必要条件でもありました。
ところが数学の最終問題に少し引っかかり、その焦りから次第にパニック状態に陥ってしまいました。その問題が出来ないと志望校はきついとの思いから、完全に自分を見失ってしまいました。結果160点というハンデを追ってしまいました。その後の人生でもこれ以上の厳しい精神状態はありません。
家に帰る途中景色が全てモノクロになり、帰宅すると黒沢明監督の生きるという映画を放送していました。なんでこの映画なんだ、人生は厳しいなぁ、と思ったものです。
そして数日後、志望校を決定する事になります。遠方の医学部と、滑り止めの為、福岡県立九州歯科大学です。
見事医学部は不合格、全く想定していなかった歯科医への道へ進む事になりました。
九州歯科大学は福岡県北九州市にある公立の歯学部です。実は歴史がある伝統校で創立後100年以上が経過しています。
入学後1人寂しく大学生活を送り、医学部への再受験も考えていました。しかしこの大学はそんな生活を許してくれる大学ではありませんでした。
入学後、毎日のように自宅にいろいろな部活動の方の勧誘があり、ご飯に連れ出されたり、遊びに連れ出されたりと全く1人にしてくれなかったのです。
しかし、そんな環境が僕を再生してくれたように思います。実は受験で負った心の傷は大きかったような気がします。
そして野球経験があった僕は硬式野球部に入学します。
この野球部での経験はとても大切なものとなりました。今でも先輩後輩の絆は固く一生の宝物です、そして歯科医もいいなぁといつのまにか変わっていました。
そして最終学年6年生となり、国家試験を迎える事になります。
当時国家試験はそんなに難しい試験ではありませんでしたので、年末近くになり受験勉強も殆ど終わってしまい、友人と図書館で話している間にエジプトに行く事になりました。
それまで全く海外に興味はありませんでしたが、この時のエジプト旅行は視野が広がったという意味でとても大きな経験になりました。
勤務医として経験を積み、そして自分が目指した歯科医になりたいという願望が強くなりました。
開業しようと決意しました。
ところが実家は普通のサラリーマン、当然ですが資産はほとんどありません。
開業するためにはお金がいるのです。お金を借りようとすれば実績か担保が必要です。2つともない自分にお金を貸してくれる銀行はありません。
そこで雇われ院長の職を探す事にしました。ところが当時ネットがない時代。全国規模で求人を探す手段がありませんでした。
そんななかある歯科関係の方からお話があり、『いい先生は面接してよければ保証人になってくれる人が鈴鹿におるで会ってみます?』ということで、お会いして保証人になっていただける事になり、いい借地が四日市にあり、四日市市で開業する事になりました。
当時、事業用借地という制度が始まったばかりで、その期間は20年しかありませんでした。しかしこの20年という期間が問題になるとは全くその時は考えていませんでした。
おかげさまで大変沢山の患者さんに来ていただき4年程で借金は全て返済し、とても順調でした。
そしてあっという間に18年の月日が流れ、気がついてみると後数年しか借地期限がない事に気がついたのです。
事業用借地には延長という制度はなく、再契約しかないのです。しかし、再契約は難しく、ここでどうするか妻である副院長と話し合った結果、ゼロからやろうという結論に達し、そこから開業地探しが始まりました。
そしてその時から患者さんとスタッフになるべく迷惑をかけないで終院する道が始まりました。
それから2年後、終院し、ここ津島市で歯科医院を開設する事となりました。
津島みらい歯科矯正歯科は我々夫婦2人の歯科医師としての経験と思いが、ぎゅーっと詰まっています。
転勤族の父の元で育った僕にとっては住めば都。流石にもう移動することは無いと思います。
後残りの人生をかけて、津島みらい歯科矯正歯科が、地域の皆さんの健康増進に貢献出来ることを実現すべく頑張っていきます。
ここまで長々と読んでくださった方に、心から感謝申し上げます。今後共、津島みらい歯科矯正歯科をどうぞよろしくお願いいたします。
副院長 小児歯科・矯正歯科担当
佐藤 華子SATO HANAKO
こんにちは。副院長の佐藤華子です。小児歯科と矯正歯科を担当してきました。
少し、昔話をします。
とても歯が痛くて、初めて歯科医院の門をくぐったのは5歳のクリスマスに近い日でした。ドアを開けて、靴を脱ぎ、待合室で歯科医院独特のキーンという音や水を吸う音を聞き、プーンと香る薬の匂いを感じながら、ドキドキしていました。名前を呼ばれ、冷たい診療台の上に寝そべるとピカッと光るライトがとても眩しく、体が硬直してしまいました。先生が何度も「口を開けて」と言いましたが、私は怖くて、怖くて、怖くて口を開けることができませんでした。すると先生は「口を開けないなら帰れ!」と怒鳴ったので、冷たい風が身に染みる夕暮れ時、家路につきました。
5歳の私は、大人の男の人を本気で怒らせてしまった。申し訳ないことをしてしまった・・と思ったことを今でも鮮明に覚えています。
このような体験から、すべての子どもたちが、不安なく歯科医院の門をくぐれて、楽しく過ごし、笑顔で帰っていくというのが、私の歯科医師人生のポリシーとなっています。すべての人にとって歯科医院が幸せあふれる場所でありますように。
むし歯も歯周病も細菌感染が原因です。誰かから菌をもらわなければ罹患(病気にかかる)しません。そのための「予防法」があり、なってしまった人には正しい対処の仕方があります。
また、人間は生まれてきてからの「食生活」「呼吸」「姿勢」「舌の本来いる位置」により、成長したときの「歯並び」「かみ合わせ」、さらに筋肉のつき具合により「顔の表情」まで関係してきます。
歯並び、かみ合わせが良くて、食いしばりなどの力のコントロールができていればお口の中のトラブルもなくなります。
一生おいしく自分の歯で食べることができることはとても貴いことです。
『食べることは生きること』
ぜひ私どもに皆様のお口の健康を担うお手伝いをさせてください。赤ちゃんから100歳以上の方々、皆様のお口の健康を維持することに携わっていきたいと思っております。